鮫島さんの朝の夢 

新米サラリーマンが日常をつづります。

ゴールデンウィーク明けの5月思い出

朝、家を出る前に外を見る。もう太陽は高くて外からは鮮やかな光。窓辺には無駄なものがたくさん置いてあり、例えばポケットティッシュ、ゴジラのフィギュア、メトロノーム、洗剤のボトル、小銭、その他の細々した雑貨、窓のむこうにはベランダがあって木が生えている。この木も特に理由なく植わっている無駄な木で、たまたま私の目に入っているに違いない。5月。二度寝していた夏がようやく目を覚まそうかという気候は1年のうちでもっとも素晴らしく、過ごしやすい。東から陽の光を受けた木々の葉には、緑などという単語で何かを意味することはできないと、言葉に張り合うかのごとく、ありとあらゆる種類の緑が反射している、美しい。しかし、そうした葉の1枚1枚は誰にセッティングされてわけでもなく、ましてや自分の意志を持つでもなく、ただ偶然の角度をそこにおりなしているのだ。朝の日差しも日に日に眩しくなり、白か黄色にハレーションした太陽の光はほとんどその勢いを衰えさせることなく、私の目に飛び込んでくる。窓辺に置いた持ち物の色が、ここに彩りを加える。ここへきて寝ぼけた頭の私の気持ちが動く。家を出て、今日を生きようと思う。
私がこの部屋に住んでいること自体は偶然とは言い難いが、目の前にこうした木が、輝かしい光の世界を見せてくれることは全くの偶然、人知の介する世界の外の出来事だ。
 しかし、私がこうしてこの木を目にした瞬間に、慎ましく存在していたはずの偶然は、人知の世界に、取り込まれてしまった。
私もこの木のように、人に目撃されることで、その人間の内側の世界に図らずも取り込まれてしまうような存在であれ。